サン・ジョアン・デル・ヘイは、ミナスジェライス州の都市で、18世紀に金の産出で発展した。
そのため、内外装が豪華な教会をはじめ、植民地時代の建造物が数多く残っている。
その町の近くには、ブラジル独立の志士:チラデンチス(Tiradentes)が生まれた町:チラデンチスがあるので、そこに立ち寄り、途中にある織物で有名な町:ヘゼンジ・コスタ(Resende Costa)も見て回った。
左の写真は、サン・ジョアン・デル・ヘイのシンボル的存在のサン・フランシスコ教会(Igreja de São Francisco de Assis)。
その近くの宿をインターネットで予約した。
到着した次の日、宿から坂道を下って教会を見に行った。
教会の前の広場に樹齢100年を超えるヤシの木が並んでいた。
すごい高さなので、ヤシの実が落ちたときの被害を心配してしまう。
教会の横の道は自然の石でできていた。
ブラジルの古い町には、このような道が多い。
写真の石は大きさがそろっているが、自然の石の大きさのまま道に敷き詰めてあるところでは、デコボコで非常に歩きにくかった。
自然の石を敷き詰めたデコボコ道は、例えば左の写真のような道。
当然、水はけが悪いし乾いたらホコリが多い。
しかし、仮に、ここが平滑なアスファルトの道だったら、ブラジルの歴史ある町の味が薄れてしまうと思う。
サン・フランシスコ教会内部の豪華な装飾。
金を大量に使って作られていると思うが、泥棒が持っていかないのが不思議。
ほとんどの家に鉄格子があることから考えて、信仰の力が大きいから、教会のものが盗まれないと考えるべきか。
教会だと思っていたら、ノッサ・セニョーラ・ダス・メルセッス病院(Hospital Nossa Senhora das Mercês)という病院だった。
観光ガイドを頼んだわけではなかったので、日本人だけで訪問したときは、てっきり教会だと思って観光した。
インターネットでサン・ジョアン・デル・ヘイの建物を調べてみたら、この建物の写真がでてきた。
確かに病院だと書いてあった。
内部を見ても病院だということがわからなかった。
元は教会で、病院に造り変えたのかもしれない。
丘の上からサン・ジョアン・デル・ヘイの町の写真を撮った。
歴史を感じる建物と普通のブラジルの建物が混在している。
このあと、チラデンチスの町に移動した。
チラデンチスの像。
チラデンチスは、ミナスの陰謀と呼ばれる1789年の独立運動の指導者。
本名はJoaquim José da Silva Xavier というが、彼の職業が歯科医師だったため、ポルトガル語で「歯を抜く」という意味のチラデンチスと呼ばれている。
彼が生まれた町の名前がチラデンチス(旧サン・ジョゼ)。
彼が処刑された4月21日は、ブラジルの祝日に制定されている。
土産物屋に入ると、棚に果実のビン詰めがびっしりと並んでいた。
お菓子もあったので、いくつか選んで購入した。
帰り道に家具屋さんが多い地域があった。
その一軒の店に立ち寄り、椅子を購入。
店の横に家具の製造所があったので見てみると、利用している材料は家の廃材。
それはそれで趣がある家具になっていた。
【スケジュール】
Data | Horário | Ação | Lugar | Nota |
13/11 (Dom) | 10:00 | Partida(Apt) | ||
11:40 | Almoço | GRAAL | Até 12:20 | |
BH | ||||
16:00 | Turismo | Congonhas | Até 17:20 | |
18:00 | Jantar | |||
19:00 | Chegada(Hotel) | São Jão Del Rei | Pousada Casarão | |
14/11 (Seg) | 9:00 | Partida | São Jão Del Rei | Pousada Casarão |
Turismo | ||||
12:00 | Almoço | |||
12:40 | Turismo | Tiradentes | ||
Resende Costa | ||||
18:00 | Jantar | |||
19:00 | Chegada(Hotel) | São Jão Del Rei | Pousada Casarão | |
15/11 (Ter) | 9:00 | Partida | São Jão Del Rei | Pousada Casarão |
12:00 | Almoço | |||
16:00 | Chegada(Apt) |
【参考】チラデンチスに関する通訳さんの解説
17世紀末、ミナスで金が発見されて以降、古都Vila Rica(現、オウロ・プレット-黒い金の意)の近くには次々に金鉱が発見されるとともに町が開かれ、ブラジルは黄金の時代(ゴールドラッシュ)を迎えていた。
1702年、サン・ジョゼ山でも金が発見され、現在のチラデンチスやサン・ジョアン・デル・ヘイ市の起源となるVila(村)が設けられ、18世紀のブラジル経済を支える中心地にまで発達した。
それ以上に、ここで産出した金は、18世紀のポルトガル王国の繁栄を支えた重要な財源であった。
そのためブラジル国民は重税に喘ぎ、その取立ては苛酷を極めた。
18世紀の後半、金の産出が減少し始めると、ブラジル経済に危機が迫る。
その一方で宗主国ポルトガルは、本国の経済を立て直すため植民地ブラジルにさまざまな制限を加えた上、たとえば1785年、ポルトガルはブラジル国内で工場を作ってはならないという法令を発し、あらゆる税を課し続けていた。
ルイス・アントニオ・フルタード(バルバセーナ子爵)が知事として州都Vila Rica(現在のオウロ・プレット)にポルトガルから派遣された。
彼が本国から持参したのが悪名高き法令Derramaである。
これによれば、ミナス州は毎年100アローバ(1.5トン)の金をポルトガルへ納めることと規定され、怠れば兵隊が一般民衆の家に押し入り、100アローバに達するまで金品を接収することになっていた。
徴収開始は1789年2月と決められた。
それまではブラジルという殖民地に住むポルトガル人であり、ブラジル人という自覚はほとんどなかったミナスの上流階級、すなわち大農場主、金鉱のオーナー、ヨーロッパの大学に学んだ知識人、高級軍人等、ポルトガルに好意的であった彼らに、いっきに不満が爆発した。
ポルトガル政府に反感を抱いた彼らは、アメリカ独立(1776年)のように自由、平等、博愛の精神をもった新たな社会を築きたいと願うようになった。
ミナスで反乱を起こそうとする人々が集まった場所の一つがサン・ジョゼ(現、チラデンチス)のトレード(Toledo)神父の家だった。
トレード神父を中心とした地元のメンバーは、革命を起こしてブラジルの独立を宣言し、工業の自由化、Vila Ricaに大学を設置するなど、自由な社会を構築しようと企てた。
その実現に向けて「Derrama」の徴収日に蜂起することが決められた。
メンバーの一人にチラデンチスがいた。
ブラジル人の誰もが知っているチラデンチスはニックネームで、本名はジョアキン・ジョゼ・ダ・シルバ・シャビエル(Joaquin Jose da Silva Xavier)。
その名が示すように(チラ=抜く、デンチス=歯)歯医者のようなこともした。
というのは彼は大学に学んだ正式な歯医者でなく、長い間勤めた陸軍の階級は見習士官であった。
経済的にも恵まれず、金の採掘に手を出したり、行商など食べるために何でもやった。
そんな彼がVila Ricaで出会ったのが、ヨーロッパで学び自由と民権の思想を持ち帰ったジョゼ・アルヴェス・マシエル(José Alves Maciel)。
それ以降、彼は独立運動へとのめりこんでゆく。
露見してからInconfidência Mineira「ミナスの陰謀」と、政府から弾圧を受けた革命グループのメンバーは詩人、学生、外国留学帰りの理想ばかり高いインテリクラスで、一般民衆から孤立し、組織力も弱く、革命などとてもおぼつかない素人の集団であった。
結局「ミナスの陰謀」と呼ばれた企ては、借金で首が回らなくなっていた金鉱の持ち主、ジョアキン・シルヴェリオ・ドス・レイス(Joaquim Silvério do Reis)が借金棒引きを条件に政府へ密告し、首謀者と目された者は全て捕らえられた。(1789年)
1792年、3年間の審問のすえ、首謀者11人が死刑の判決を受けた。
そのうちの10人は国王マリア1世により流罪に減刑された。
もっとも貧しく教育程度も低かったチラデンチスだけが陰謀の首謀者とされ、見せしめのためリオデジャネイロで絞首刑に処され(1792年4月21日)、五体はばらばらにされ、あちこちに晒された。
Iconfidência Mineira「ミナスの陰謀」はあっけなく壊滅したが、この事件はブラジルを植民地として統治したポルトガルの専断的で横暴、傲岸不遜なやり方に立ち上がった民衆の勇気ある戦いと賞賛されている。
これ以後、ブラジルの独立運動は急速に広まり、1822年9月7日の独立へとつながっていく。
しかし、彼の勇気は長いあいだ人々の記憶から忘れられ、1870年代に彼の名誉回復を図る運動が起きたが、実際に回復するのは1890年。
法律で4月21日の処刑の日が「チラデンチスの日」として国の記念日に制定されるまで、彼の死後、実に百年の歳月を要した。
彼の生まれ育った町サン・ジョゼもチラデンチスと改名された。
以上、終わり。
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